白紙の計画書

自己表現欲求と照れの狭間にいます

長い文章の書き方を忘れそうだ。

 スマートフォンのホーム画面の、右手の親指でタップするのに具合の良い位置に陣取ったツイッターのアイコンを見るたびに、最近はそう思う。思いながらも指は吸い寄せられるようにアイコンを叩き、フォロワーが発信する短冊の奔流を眺めているうちに僕はもっとインスタントな"面白い"を見つけてしまう。

 

 ツイッターというツールに出会ったのは高校生の頃だった。当時まだガラケーユーザーで、パケホーダイ的なサービスにも入っていなかった僕は、フォロワーのツイート通知とメールでツイートする機能を駆使してメールだけでツイッターを楽しんでいた。メールのやり取りであれば従量課金の枷から外れられたためであるが、光る通知ランプを目にした友人に「メール来てるよ」と指摘されるたびに「これはツイッターで云々」と説明をするのが気恥ずかしかった。
 大学生になってスマートフォンを持つようになり(正確に言えば、ガジェット通を気取っていた僕はWillcomのルータ機能付きPHSiPod touchを組み合わせて運用していた時期もあった。今から思えば不便極まりなかった)、青い鳥に拘束される時間は飛躍的に伸びた。SNSの功罪なんて小難しいことを述べるつもりは無いけれど、どんな場面であれ文章のアウトプットが脊髄反射的になってしまったことは、自分に関しては明らかだ。略して自明である。

 

 これは由々しき事態だ。仮にも僕は「小説家になりたい」の一点張りで県内最難関の中高一貫校に潜り込んだ実績を持つ文学少年の端くれじゃあないか。改めて文字に起こすと意味がわからないんですけど、よく入試通したよな。

 

 健全な食事と子供の文化資本に関しては金と手間をかけることに一切の躊躇がないという非常にありがたい家庭に生まれた僕は、期待通りに優良なクソガキとして育った。県内の科学館は気に入った展示を丸暗記できるくらいには連れて行ってもらったし、年に一度よりかは多い頻度で都内のそういった施設にも行った覚えがある。足が届く範囲の体験系レジャーにもあらかた連れて行ってもらえた。今にして思うと本当に恵まれていた。ありがてえ。

 そんな環境で育っておいて申し訳ないのだけれど、当時の僕にとって最大の幸福は行きたいと言えばいつでも図書館に連れて行ってもらえたことだった。両親や妹の分のカードまで使って読みたい本を山と借り、夢中になって読んでいた。

 同世代のジュブナイル好きなら賛同してくれると思うんだけど、僕が読んで育ってきた小説の主人公たち*1って大体みんな小説家を目指してて、それがダイレクトに自らの「将来の夢」に影響を与えてきた時期っていうものがあって。
 僕も文章を書いていれば亜衣や内人と同じように事件に巻き込まれていかないかなという期待なのか、小説家を目指す彼らと自分の同一視なのか。物書きに憧れるようになるスピードは、単に面白い小説に出会うよりも桁違いに早かったんじゃあないだろうか。

 

 しかしまあ、憧れるだけで何をしたわけでも無いので。結局今までの人生において、それっぽい物を作り上げたことは一度もないままなのである。初期衝動から離れるのと並行して、自分よりまっとうに文章を書ける人というものが世の中にはありふれていることにも気付かされる日々だ。
 Yahooニュースに乗る記事を書く先輩やスマートニュースに取り上げられるブログを書く後輩、彼らが"どこか遠くにいる凄い人"でも"なんかスゲえ文章を生成する人工知能"でもなく身近にいる実在の人間であるということに打ちのめされ、同時に奮起させられた。

 

 長い文章の書き方を忘れそうだ。長い文章の書き方を忘れたくないと思ったからブログを始めてみた。忘れるも何もお前は文章の書き方とやらを知っているのか?知らないことをかつて知っていた振りをして格好つけて重い腰を上げるかのように振る舞って大層な物言いをして今のお前に一体何が書けるというんだ。そんなことはどうでも良いのだ。 

 なにか書かねば。
 なんでもいいのだ。もはや文字を書いて飯を食いたいわけじゃあない。これは僕が思春期のその前に置いてきた夢の残滓との、ただただ泥臭いだけの内なる闘争である。
 文章を綴ることは自己の内面を整理することだ。自己満足の自己研鑽だ。他でもない自分がこれで良しとしているんだからそれでいいんじゃあないか。

 思いついたときに思いついたことを書くので、思いついたときに読みに来てほしいと願う。

 

 

*1:というか、はやみねかおるの書く主人公たち